不動産屋のフリートーク 世界史
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不動産屋のフリートーク

不動産情報他・雑談・世界史とか

大陸封鎖令

                     
            ナポレオン




1806年、ナポレオン1世は、イギリスに経済的打撃を与えるため
「イギリス諸島とのあらゆる商取引・通信を禁止する。」と 
ヨーロッパ諸国(大陸諸国)に対し大陸封鎖令を出しました。


これはナポレオンがイギリスをたたくのと同時に
ヨーロッパ市場の独占を目指したものでした。

当時、いち早く産業革命に成功したイギリスは「世界の工場」として
工業力を持つようになっていました。

反対に 温暖なフランスは農業は発展していましたが
工業の発展はいまひとつでした。

なので フランスは安価なイギリス製品が入ってくるのを
ブロックしなければなりませんでした。

つまり 大陸封鎖令の真の目的は
「フランスの保護主義対イギリスの自由貿易」でもありました。


この結果、イギリスへの穀物輸出が制限され大損害を被ったのは
ヨーロッパの国々(ロシア・ポルトガル等の農業国)でした。


これがヨーロッパの国々(大陸諸国)の反抗をまねくことになり
ナポレオンの失脚するきっかけになりました。


自由主義そして経済的強者の勝利でした。


実はフランスは経済に関しては
昔から保護主義的な国(どちらかというと)なのです。





今回、日産自動車のカルロス・ゴーン氏が東京地検特捜部に
逮捕された問題。

どうやら虚偽記載の問題だけではなく
日産自動車VSルノー・フランス政府の対立まで
発展していきそうです。


私個人的には 日産側が勝つと思います。
(時間はかかると思いますが)

理由は これからわかるよう「戦いは経済的強者が常に勝つ」論理と
以前書いた記事フランス、実はケンカが弱い説からです。


強引な予想なのはわかっています・・・・・・







  1. 2018/11/23(金) 11:47:05|
  2. 世界史
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アングロ・イラニアン石油会社


先日、テレビの金曜ロードショーで放映された映画
「海賊と呼ばれた男」。

海賊と呼ばれた



原作は百田尚樹氏のベストセラー小説です。


海賊と呼ばれた本

モデルは 出光興産(株)創業者「出光佐三」です。


原作の小説は本屋大賞を受賞した時に読んでいた
のですが映画は見ていませんでした。

戦後のアメリカ石油資本VS田岡商店(出光興産)の攻防
がリアルに描かれ映画も小説同様面白かったです。

ですが テレビなのでカットされていたのか
「イランに自ら石油を買付に行くことが なぜイギリスを怒らせるのか?」
の点が分かりにくかったと思いますので説明します。
(すでにネットで調べているかもしれませんが・・・)


19世紀末、列強による植民地支配の時代、
イランをめぐってロシアとイギリスが対立していました。
(ここから説明します。)

しかし 日露戦争に負けたロシアは
中東方面の南下政策を緩めます。

この時にイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社が
イランでの石油採掘権を独占しました。

社名の通り
アングロサクソン人によるイラン開発です。

現在、F1レースで有名な BP/カストロールの前身です。

そして、第二次世界大戦が始まるとイギリスはイランを占領します。

イランの国王を傀儡とし
石油採掘権を握り続けました。

「日本の満州事変とどう違うねん」というのは 
私はネトウヨではないので さておき・・・

戦後 イランもアジアやアラブの国の独立運動に影響をうけました。

そして
1950年代 モサデク首相はアングロ・イラニアン石油を国有化します。

これにイギリスが激怒。軍艦を派遣し イランに石油を買付けにきた
タンカーは撃沈すると表明しました。


こんな状況で堤真一はイランに向かうわけです。
そりゃ ビビるでしょう。
史実ではこれを日章丸事件といいます。

これが みんながビビっていた理由です。
映画はこの時代で終わりです。



が 自称何でも知っている不動産営業マンなので
(今日は暇なので)その後の史実も説明しておきます。

この後 CIAやイギリスのMI6の工作により
モサデグ首相は失脚します。
傀儡のパフレーヴィー2世政権を樹立。

そして イランの石油採掘権は、イギリス・アメリカ資本に移ります。

ここでアメリカ資本が入ってくるわけです。

そして1979年イラン革命で 傀儡の国王は国外追放。
石油会社は名実ともに国営企業として発展していくわけです。

このことが 現在のアメリカVSイランの対立の
きっかけになっていくのです。


ちなみに ちまたでよく言われる陰謀論
「アメリカの石油資本が世界経済を左右する」
というのを 時々見ます。(主にネットとかで)

ですが 今はそこまで力はないでしょう。


70年代ぐらいまでがピークでしょう。


おわり





















  1. 2018/10/01(月) 12:24:27|
  2. 世界史
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2者択一で間違える人


進路の選択から今日の昼ご飯まで 我々は2者択一(最終的にも含む)
で決定しないといけない場面がよくあります。

それらの場合 あとから「そっちを選ぶんではなかった」や
人のをみて「そっちではないだろ」と思うことはよくあります。

また 仕事であればその選択を間違えて 
取り返しのつかない大ごとになったりもします。




歴史上の人物が選択した間違いを 後から正すのは
基本的にはルール違反で誰でも言えます。

が それにしても この人、最後のドイツ皇帝
「ヴィルヘルム2世」はひどかった。



その理由を説明する前に
19世紀末のヨーロッパ内の対立関係を書きます。(めちゃ複雑なので簡潔に)

まず ドイツVSフランスが対立していました。
(ナポレオン時代からずっと)

そのためドイツは ドイツ・オーストリア・ロシアとの間で
三帝同盟を結びます。

ここでロシアが露土戦争をおこします。
ロシアはオスマントルコに勝利しバルカン半島に進出。

ここでロシアVSオーストリア・英の対立がおきます。
三帝同盟は有名無実化しました。

これらが理由でドイツはドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟を結びます。
そしてロシアとは再保障条約を結んで「攻めてくるなよ」としました。

これらを一手に引き受け 外交手腕で実行したのがドイツの
鉄血宰相 ビスマルクです。このようにかろうじて戦争が起こらないよう
にしていたのを 「ビスマルク体制」・「ビスマルク外交」などと言います。


がその後 ドイツ帝国では不幸にもこの人

  ヴィルヘルム

ポンコツ皇帝「ヴィルヘルム2世」が即位します。

これがドイツの不幸の始まりです。

29歳で皇帝に即位したヴィルヘルム2世は
まずそのビスマルクを罷免します。

2者択一どころか「それをやってはいかんやろ」
ということをやってしまったわけです。

そして 中東方面へ進出しようと 有名な3B政策を推進するわけです。


これで ビスマルクのおかげでギリギリ平穏を保っていた
ヨーロッパが一気にきな臭くなるわけです。

以降の史実は省略しますが
その後 数年で第一次世界大戦です。

本来これは 人選ミスなのですが
この時代 皇帝なので仕方がありません。

少なくともビスマルクを罷免していなかったら
またはビスマルク外交を継承していたら
第一次世界大戦は起きていなかったと思います。



おわり



世界史ネタ 個人的には好きなのですが 
書くのしんどいので 私が暇な時限定にします。




























  1. 2018/09/23(日) 13:05:14|
  2. 世界史
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病原菌


前回のブログで この本 銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイヤモンド著
中身を引用してブログに書くと言いましたが、
かなりページ数が多かったので  やめます。 

忙しい方も自分で読んでください。


なので 私が特に印象に残った箇所だけ書きます。



1519年、コルテスは人口数百万ので勇猛果敢な軍隊を擁する
アステカ帝国を征服するために、600人のスペイン兵士とともに
メキシコ海岸に降りたちました。

結局 あっという間(1521年)にコルテスがアステカ帝国を
征服するのですが これを決定つけたのは軍事力ではなく 
一人の奴隷がヨーロッパからメキシコにもたらした 
天然痘の大流行のおかげでした。

この天然痘の流行により アステカ帝国の人口は半減し
そして滅びました。


また、後のピサロのインカ帝国征服や スペイン人の北米
アメリカ先住民征服も天然痘の流行のおかげです。


ちなみに 征服者側のヨーロッパ人はすでに免疫が
できていたので これらの病気にはほとんど感染しませんでした。


と ここまでは知っている方も多いと思います。
教科書にも載っています。






後に ヨーロッパ人はオーストラリアや南太平洋の島々の
免疫のない先住民たちにも病原菌をまき散らし そして征服したのです。


西洋人はこれらの大陸や島を征服する際、銃や鉄製の武器を
使用したのと同様に病原菌を使用したわけです。

「じゃ なぜ西洋人はこれら先住民に先駆け
銃・病原菌・鉄をもっていたのか?」という理由が
この本には様々な事例をあげながら 書いています。

それがこの本の主旨です。

説明はブログでは無理です。


なのでやはり 自分で読んでください。


読書感想文にもならずスミマセン。


今日は台風が来そうなので 帰ります。




  1. 2018/08/23(木) 14:02:19|
  2. 世界史
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多くのスポーツがイギリスで始まった理由


サッカー、ラグビー、ボート、 競馬、ゴルフ テニス、ホッケー、
バドミントン等多くのスポーツがイギリスで生まれ ルールが定められ 
世界に普及していきました。

これはスポーツが広まった19世紀、イギリスが世界に先駆け 市民革命と
産業革命を成功させ市民社会を築きあげたことと 世界に多くの植民地を獲得し
大英帝国を樹立したことが理由です。

パクス・ブリタニカと言われ 覇権国家イギリスの発展と共にそれらスポーツは
世界に広まったわけです。

これが一般的な理由です。



ですが、この説明でこれらスポーツが広まった理由は理解できますが
なぜイギリスで発祥し・流行したかが 今一つわかりません。

なのでここから 私がいつものように想像解説します。


以下は私の個人的な説なので 間違っているかもしれません。


イングランド・スコットランドのあるブリテン島は
日本なんかより山地が少なく なだらかな丘陵や平地が多いため
羊を飼うのにも適していました。

産業革命以前の イギリスの主力輸出品は自国生産した毛織物でした。
そしてそれがよく売れていました。

なので地主層(ジェントリ)たちは 囲い込みまでやって 
羊毛増産を行ったのです。第一次囲い込み(エンクロージャー)


ですがその後 植民地戦争に勝利したイギリスは広大な市場を
獲得するわけです。

マーケットはヨーロッパ以外の インドやアフリカなどの暑い国が
加わりました。

そこで売れるのは毛ではなく綿です。

インドや北アメリカから綿花を安く輸入し 工場生産を機械化する
ことによりそれらを安く・早く・多く生産したのです。

なので 14世紀から毛織物の中心地として知られていた
マンチェスターなんかは綿織物生産の中心地として
飛躍的に発展していきました。

これに 動力革命などがおこり イギリスでは機械工業・製鉄・
石炭業が発展していきました。 

そして 地主層(ジェントリ)は資本家になっていきました。

なので 牧場で羊を飼う人は減り 空地が増えたはずです。



そして、これらで儲けた地主層(ジェントリ)たちが その空地で
始めたのが サッカーやラグビーやゴルフなどの
スポーツだったのです。


だから 全英OPをするゴルフ場なんかは 
人工的でなく自然のコースがあるのです。


昔は羊を飼っていたのかもしれません。


イギリスのスポーツの多くは「ジェントルマン・アマチュア」に限るという
規定を設けています。

これは本来 「スポーツをするのは労働者階級を除くジェントリーを中心とした
セレブたちのみ」という規定です。

だから ゴルフ、ラグビーなどイギリス発祥のスポーツの多くが
「紳士のスポーツ」と言われるのです。

これらを根拠に私は「イギリスでスポーツが多く始まったのは
羊を育てることができるような平らな芝生の多い土地が多かったから」
説を主張します。


誰か大学生、正確に調べてー



  1. 2018/08/16(木) 12:42:36|
  2. 世界史
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ハノーヴァー朝

ハノーヴァー朝


1714年にアン女王が死去、後継ぎがいなかったため
遠い親戚であった ジョージ1世がハノーヴァー選帝侯(ドイツ諸侯)
兼英国王という肩書でロンドンにやってきます。


ジョージ1世はドイツ人で 英語もほとんど話せませんでした。

すでにこの時代から国政は 議会が殆ど行っていたため
「国王は君臨すれど統治せず」でした。

なので問題ありませんでした。


また、上記家系図からもわかるように
その後も ヴィクトリア女王なんかはドイツ人と結婚して
その子供が国王を継ぎ 現在に至っています。

ちなみに現在の王朝をウィンザー朝と言っているのは
第一次世界大戦時 敵国だったドイツ名を嫌って、ハノーヴァー朝から
名称変更しただけです。

王朝・血筋は変わっていません。


だから 現在の英国王室の血統はほぼ ドイツ人です。


イギリス人もこれでO.Kなのです。



これが日本人の天皇家に対する考え方と全然違うところです。


日本人が皇位継承問題や皇室典範改正を議論する際、
だいたい、一番保守系の人が天皇は男系男子のみ派で
それに対して女系天皇でも可の意見でわかれます。
後継ぎは現在の皇族の中で考える意見が殆どです。
(天皇制廃止派は 少数意見なので)


血がつながってさえすれば なんでもO.Kのイギリス国民とは全然違います。
(あくまでも世界史的にみてです。)

しかし、日本人も 天皇の皇位継承問題を柔軟かつ真剣に考えないと
今のままでは世界で一番長く続く天皇家が 途絶える可能性は
かなり高いのです。

私は 保守系でもネトウヨさんでもありませんが  少し心配です。



  1. 2018/07/23(月) 11:47:00|
  2. 世界史
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ウィーン会議

ドラクロア


ナポレオン戦争終結後、1814年 戦後の体制を取り決めるため
ヨーロパ各国の代表が集まり ウィーン会議が開催されました。

この時の主要国は イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンでした。
(とフランスが当時ヨーロッパの大国)

会議をを取り仕切ったのがオーストリアの外相、メッテルニヒでした。

しかし、各国の主張を調整するのが難しく 舞踏会ばかり開いていたため
「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されるほど 会議はグダグダでした。

この各国の利害対立を利用しようと考え 仕切りだしたのが
フランスの外相 タレーランでした。

フランスは敗戦国、ましてタレーランはナポレオン時代、
外相をやっていたこともあったのにです。

タレーランは会議で「フランス革命前の主権と領土にもどすべきだ」という
正統主義を主張しました。

つまり元の正当な世界に戻せば ヨーロッパは収まりますよ、ということです。
戦争責任をナポレオンに押し付けたわけです。

そして各国の代表はみんな納得してしまうわけです。

こうして敗戦国フランスは旧来の領土をほとんど失うことなく、
ヨーロッパの国境はナポレオン以前に戻りました。

タレーランしてやったりです。


これは例えるなら 会社を赤字にした張本人の営業部長が
会議でナンダカンダ言って煙にまいて 責任を逃れたようなものです。


タレーランは外交官としてはそれくらい優秀だったのです。
(たとえがイマイチですみません。)


反対に会議の主導権を握っていたメッテルニヒや 
ロシアのアレクサンドル1世がポンコツだったのかもしれません。


これで 現在の西ヨーロッパの国境の基本ができます。

このどさくさにまぎれナポレオンはエルバ島を脱出し
パリに戻り皇帝に復帰します。

会議は中断、対仏同盟が結成され、ワーテルローの戦いでナポレオンは
完敗します。 この期間がいわゆるナポレオンの百日天下です。


以上が19世紀前半、ヨーロッパにウィーン体制ができるまでの流れです。


試験にでます。


ちなみに上記絵画 「民衆を導く自由の女神」の作者、ドラクロワは
タレーランが愛人に産ませた子供という説(かなり有力)があります。

そして この絵画がニューヨークにある自由の女神像のモデルになっています。
(本文とは関係ありません)


このブログ、本当に教養が身に付きます。


おわり


  1. 2018/07/17(火) 17:42:50|
  2. 世界史
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鄭和の大航海


中国の一帯一路政策の海の方のやつ。「21世紀海洋シルクロード」は
中国沿岸部から東南アジア、スリランカを通りアラビア半島・アフリカ
東部を結ぶ計画です。


21世紀海洋


この図を見た時、世界史詳しい人(マニア?)なら 

「ん? これ似てるな」と思ったでしょう。



鄭和の艦隊


15世紀 明の時代、永楽帝に命じられて諸外国(上記図)大航海
に赴いたのが宦官として仕えていた鄭和でした。


鄭和は顔の濃い 色目人でイスラム教徒でした。靖南の役で成果を
出して永楽帝に認められ南海遠征(上記図)の指揮官に任じられ
活躍しました。


第一次航海は 大船62隻、2万7800人の大船団でした。 
後の大航海時代のポルトガル船が250人程度(それでも海賊よりは強かった)、
現在のアメリカの原子力空母の乗組員が5,6千人です。 当時
鄭和の艦隊がいかに大規模で中国の造船技術が高かったのか
が分かります。



この大艦隊で明の皇帝は 各国に朝貢を求めたわけです。


そりゃ ビビるでしょう。




現在の一帯一路政策、 海の方は進捗が今一つのようです。

ですが目標は2049年なので 中国は明の時代のように
着々と陸・海ともユーラシア大陸での覇権を目指すでしょう。




  1. 2018/07/05(木) 13:44:04|
  2. 世界史
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なぜキリスト教はヨーロッパで普及したか?


「なぜキリスト教はヨーロッパで普及したか?」

先日暇だったので そっち系の勧誘に来たおばちゃん(パンフレット持ってくる人)
に この逆質問をしてみました。

すると 何か宗教的な答えが返ってきました。

それでは 信仰心の強い人しか理解できません。
(それで良いのですが・・・)



そして受験生、
これは直接入試問題には出ませんが 世界史を勉強する上で重要です。
知らないと 偏差値の高い大学には受かりません。




西暦30年ごろ イエス・キリストが十字架にかけられ処刑され
その後 復活を信じる弟子たちによりキリスト教は形成されました。

しかし すぐ(ローマ時代)には普及しませんでした。

ヨーロッパ全土に普及した(一般市民まで)のは 
だいぶ後の中世に入ってからでした。


地中海沿岸を除くヨーロパの土地は
非常に痩せていて 農業には向きませんでした。


そのため 食物が絶えず不足し、医療もほとんど成立せず
また ローマ時代のように 町は公共上下水が整備されていませんでした。

なので黒死病なんかが 流行ったのです。


14世紀のイングランドの平均寿命が24歳、16世紀でも34歳でした。
また、乳幼児の死亡率も高く約6割の子供は10歳を向かえる前に
亡くなっていました。


だから 中世ヨーロパの人々にとって 「死後人はどうなるか?」
という問題は深刻だったわけです。

キリスト教は 他の宗教より人間の死後について明確でした。

それは
「死後天国へ行くには ただ教会の教えを信じればよい」でした。


これが 一般の人々には非常に分かりやすかったわけです。

この他 キリスト教は戒律が厳しくなかったり 一神教のわりに
多神教的な要素 (聖母マリア・サンタクロース・聖バレンタインとか)
もあったりし 爆発的にヨーロッパに普及したわけです。


そして ヨーロッパが裕福になったので 宗教改革がおこった
とも言えます。



なかなかこのブログ、勉強になります。



おわり









  1. 2018/06/23(土) 12:11:51|
  2. 世界史
  3. | コメント:0
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大阪市淀川区の不動産屋です。

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