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ウィーン会議

ドラクロア


ナポレオン戦争終結後、1814年 戦後の体制を取り決めるため
ヨーロパ各国の代表が集まり ウィーン会議が開催されました。

この時の主要国は イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンでした。
(とフランスが当時ヨーロッパの大国)

会議をを取り仕切ったのがオーストリアの外相、メッテルニヒでした。

しかし、各国の主張を調整するのが難しく 舞踏会ばかり開いていたため
「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されるほど 会議はグダグダでした。

この各国の利害対立を利用しようと考え 仕切りだしたのが
フランスの外相 タレーランでした。

フランスは敗戦国、ましてタレーランはナポレオン時代、
外相をやっていたこともあったのにです。

タレーランは会議で「フランス革命前の主権と領土にもどすべきだ」という
正統主義を主張しました。

つまり元の正当な世界に戻せば ヨーロッパは収まりますよ、ということです。
戦争責任をナポレオンに押し付けたわけです。

そして各国の代表はみんな納得してしまうわけです。

こうして敗戦国フランスは旧来の領土をほとんど失うことなく、
ヨーロッパの国境はナポレオン以前に戻りました。

タレーランしてやったりです。


これは例えるなら 会社を赤字にした張本人の営業部長が
会議でナンダカンダ言って煙にまいて 責任を逃れたようなものです。


タレーランは外交官としてはそれくらい優秀だったのです。
(たとえがイマイチですみません。)


反対に会議の主導権を握っていたメッテルニヒや 
ロシアのアレクサンドル1世がポンコツだったのかもしれません。


これで 現在の西ヨーロッパの国境の基本ができます。

このどさくさにまぎれナポレオンはエルバ島を脱出し
パリに戻り皇帝に復帰します。

会議は中断、対仏同盟が結成され、ワーテルローの戦いでナポレオンは
完敗します。 この期間がいわゆるナポレオンの百日天下です。


以上が19世紀前半、ヨーロッパにウィーン体制ができるまでの流れです。


試験にでます。


ちなみに上記絵画 「民衆を導く自由の女神」の作者、ドラクロワは
タレーランが愛人に産ませた子供という説(かなり有力)があります。

そして この絵画がニューヨークにある自由の女神像のモデルになっています。
(本文とは関係ありません)


このブログ、本当に教養が身に付きます。


おわり


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